難しい事例

〈拝啓 このたび、被害者・M様の自動車事故人身損害について、弊社自動車損害賠償責任保険に対して貴方様より保険金のご請求を受けましたが、調査の結果、本件は下記理由により、遺憾ながらご請求に応じかねることになりましたので、あしからずご了承願います〉
「自動車損害賠償責任保険お支払不能のご通知」と書かれたB5判サイズの紙きれが、保険会社のサービスセンターから届いた。
通知書を受け取ったのは、東京都に住む会社員・Aさん(59)、Yさん(50)夫妻。当時二十四歳だった長女のMさんを交通事故で失った遺族である。
通知書の下部には、自動車損害賠償責任保険金をいっさい支払えない理由として、「加害者には過失が全くなかった」という内容の調査結果、が百文字程度でそっけなく書かれていた。
事故が起こったのは春。
午前六時半頃、会社員だったMさんがスクーターで東京都内の鎌倉街道を直進中、後ろから来たワンボックスカーに接触され、その車にひかれたというものだった。現場は見通しのいい直線道路である。
ワンボックスカーは停車せず、倒れているMさんを残してそのまま逃走。後続車のドライバーはすぐにワンボックスカーを追跡し、もう一台後ろを走っていたドライバーが119番通報をした。
母親のYさんは、ときおり涙で声を詰まらせながら語った。
「警察からの知らせを受けて夫と私が病院へ駆けつけたとき、娘はすでに亡くなっていました。ほとんど即死だったそうです・・・」
頭蓋骨粉砕骨折による脳挫傷。Mさんは加害車のタイヤで、ヘルメットをかぶったまま頭をまともにひかれたのだった。
警察は現場に残された痕跡や聞き込みをもとに、総動員で加害者の割り出しにあたったが、通夜、葬儀が終わっても、加害者の手がかりはつかめなかった。
そして事故から二週間後、警察はワンボックスカーを追跡した後続車のドライバーを捜し出し、その証言が決め手となって、犯人が逮捕された。
怖くなって逃げていたという犯人は、五十四歳の土木作業員。事故を起こす二時間ほど前まで、ビールや焼酎などかなりの量の酒類を飲んでおり、少し仮眠してから仕事に向かう途中だったことがわかった。
その後、この事件の遺族であるAさんから直接連絡をいただき、私は間然とした。なんと、この事故そのものは、亡くなったMさんに一◯◯パーセントの過失があったとして処理されていたのだ。
その理由としてまず、加害者が警察の調べに対して、
「自分はセンターライン寄りをまっすぐ走っていただけ。スクーターの女性が自分の車を追い抜こうとして、車の左後部にかすれるように当たった」と供述したことが大きかった。まさに「死人に口なし」である。
また、二週間後にようやく見つかった後続車のドライバーが、
「スクーターがバランスを崩し、ワンボックスカーの後部左側面に肩を接触し、左に飛んだように見えた。ひかれて死亡したのなら、車の下に倒れ込んだのでしょう・・・」という証言をしたことも微妙な影響を与えた。このドライバーはその証言のあとに、「倒れ込んだという状況ではなかった・・・」と訂正し、そのやりとりは調書にも記載されている。しかし、検察はその部分に気がつかなかったのか、あるいは重要視しなかったのか、事故の原因はこれらの証言に基づいて、
「被害者(Mさん)が加害車を追い抜く際、加害車に接触し、加害事の下に入り轢過されたものである」と結論したのだった。結局、土木作業員は、ひき逃げ行為については道路交通法違反(救護義務違反・報告義務違反)を問われ、懲役八ヵ月の判決を受けたが、真弓さんを死にいたらしめたという業務上過失致死罪には問われなかった。飲酒運転については事故直後に検知できなかったこともあり、判決文には触れられなかった。
一方、自賠責保険の損害調査をおこなう自算会(自動車保険料率算定会)でも、加害者は無責(責任がない)と判断した。冒頭の通知書にはその理由がこうしたためられていた。
〈加害者は先行大型トラックの後方を時速三〇~四十キロでセンターライン寄りをまっすぐに進行中、M車が加害車を追い抜く際、加害車に接触し、加害車の下に入り轢過されたもので、加害者には事故発生について過失がないものと判断いたしました〉
こうして、真弓さんの死亡保険金はいっさい支払われないことになった。